うちだと次女になるけど、なんというか、彼女は非常に優しくてまじめなんだよね。
言葉を話すのが苦手で、今も『何言ってんのかなー』とか、『え、今の話の関連性は??』なんてことがたくさんあって、これも次女が人を怖がる理由の一つになってる。「言ってる意味わかんないし。」なんてクラスメイトに言われたら、社会と交流したいと願っている彼女には大打撃なわけです。
そう、不思議に思った方もいると思うけど、不登校だけど、次女は『社会と交流したい』と願ってる。誰かと友達になって一緒に遊びたい。親友が欲しい。自分を理解してくれる誰かと出会いたい。
でも、いかんせん表現が苦手で、不満なんかを心の底にため込んでしまう。嫌われちゃうかもしれないしね。
そんなことを続けるのは、当たり前だけど不健全で、いつか心に限界が来るわけですよ。
で、つい数日前にそれが大爆発を起こしました。
大号泣で「誰も私を褒めてくれない。こんなに頑張ってるのに!」
と主張する次女。いや、お手伝いしてくれるたびに褒めていたし、学校に挨拶だけでも行かないとって次女が学校に行くたびに「今日もお疲れ様、頑張ったね。」って言ってたんだよ?でも、次女にとっては『褒める』ってそういうことではないんだろうなぁ…
「生きてるだけで、ものすごく頑張ってるのに…」
力なく言った、次女の言葉。
これが全てなような気がした。
うまくいかないことがいっぱいあって、みんなと同じにはなれなくて、頑張っても頑張っても追いつけない。「それでもあなたはあなた、大事なんだよ。」って伝えられても、自分の中で納得がいってない。『普通』に対する激しい憧れ。それと、完璧主義な次女の特性。なのに相反する『すぐ忘れてしまう』という特性。自分の中に矛盾を抱えて生き続けていかないといけない。
そうなんだろう、きっと『生きる』という行為だけでも、オートじゃなくてマニュアル作業が多くて、疲弊して、自分を受け入れきれずにダメ出しして、でも将来は不安で、どうにかしたいのにどうにもならないことをたくさん体験しているんだろう。ものすごく頑張っているのに報われることが少なすぎると感じてしまうんだろう。将来の不安だってもちろんあるだろう。いつか、自分を唯一理解してくれていると思っている身内を失うのも、今から恐怖を感じている様子を見せている。
そりゃ、学校行けるわけないよなぁって、次女の号泣を聴きながら思った。
大して頑張れって言ってるつもりはなかったけど、それは『私にとって』であって、『次女にとって』ではなかったんだよね。
だから、学校のことは一斉言うのをやめようと思った。心の負担はできるだけ減らしてあげたい。
今が『生きる』ことに集中して、エネルギーをたくさん補給してほしい。
子どもには幸せになってほしい。辛い思いはできるだけさせたくない。大人になった時にお金に困ってほしくない。親の望みはたくさんあると思う。でも、これがうちの次女にはものすごい負担なんだよね。親っていうのは厄介な生き物だなぁと、我ながら思ってしまったのでした。
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