言い出したくても

はっきり言おう。

私は10年以上の鬱サバイバーだ。

更に言うとADHDでもある。

隠す気はない。だってこれが私だから。もう人生の半分以上は生きたけど、生まれた時からこれが私なんだよね。(まあ、鬱は途中からだけど(笑))

なんでこんな宣言をしたのかっていうと、ついこの間友達と話していて、自分の子どもの病気や障害を告白すると、告白した相手も「実はうちも…」って話してくれる人が多いって言ってたから。

自分から言い出すのって勇気がいるんだよね。わが子のマイノリティを話すのって引け目に感じるんだと思う。でも、相手が先に行ってくれると、きっと溜まっていた不安や悲しみが共有できるかもしれないって気持ちになって、話しやすいんだと思う。

私はそういうの、いいと思うよ!共有したほうが絶対に楽。

世の中が『普通』を連呼するし、『個の責任』を強く主張してくるから、私みたいなのは

『普通』とは?

『個の責任』とは?

なんて問いかけたくなる。天邪鬼なんだろうなぁ(笑)

私の人生の中で出会った人たちは、みんな個性的だった。クラスでリーダーシップを握ってる女子はマウントが激しかったし、社会に出たらパワハラ、モラハラ、ストライクゾーンのめっちゃ狭い人、逆に広すぎる人、超マイペース、平気で人の悪口を言う人もいたし、人の功績を横からかすめ取るような人もいた。正直な人もいたけど、損している感じが多かったなぁ。

さあ、こんな社会の中の『普通』って何なの?

『普通』であるより『善良』でありたいと思ったし、もみくちゃな悪意の中で生きる『普通』に染まるなら『変人』でいいと思ってる。

凸凹子育てをしているうちに、その気持ちはどんどん強くなっていった。だって、世の中が認めた『普通』の路線に乗らないと、ママ友も作れないっぽいことに気が付いたから。

でも、世の中の『普通』の範囲って狭いんだよ。全然多様性が認められてない。だからみんなじっと黙して語らず。心の中に苦しさとか悩みとか、ひた隠しにして、作り物の笑顔で何とか世間体を作ってる。家ではどんなに大変なんだろう。

なので、私は自分のことも子どものことも隠さない。それは危険なこともあるかもしれないけど、私は自分のことも子どものことも恥じてはいないから。できないこともたくさんあるよ。嘘でしょってこともたくさん起きる。でも、私も子ども達も自分たちの中にある『普通』の世界観をお互いに理解しようとしながら、協調しようとして生きてる。自分の世界の『普通』と他の人の『普通』が同じじゃないと気がついた時点で排他的にはなりにくいものだなと思った。ここで排他的になると、自分も排除される対象になっちゃうんだよね。それは本末転倒じゃないですか(笑)

人と違うってことは自分の自信を失わせることなのかもしれないけど、それが魅力でもある。うまくいかないこともたくさんあるけど、自分に合ったうまくいく方法を探せばいい。たまたま、一般的な方法じゃ、自分には合わないっていうそれだけのこと。

ここまで開き直ってると、逆にみんな引くのかな(笑)

いや、人生って難しいなってちゃんと考えてますよ。でも、悲観的にはなりたくないの。自分も、我が子も世間一般の『普通』からは外れてるけど、それが悲劇的だって思ったら、親にも子どもにも失礼だから。みんな一生懸命生きてるじゃない!

だからさ、言いたいのはこういうこと。

言い出しにくい家族の悩みを抱えてる人、まだ受け止めきれなくて悩んでる人、一生懸命生きててすごいと思う!あなたは頑張ってるよ。

もしもちょっと愚痴ってもいいかな、口に出したら気持ちが軽くなるかもって思えるようだったら、いつか私に話を聞かせてほしいな。そしたら私もあなたのことを頼らせてもらって、自分の中にたまってる愚痴を言わせてください。

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